高架下を歩く(その1)
吉谷です。
今回は、「高架下空間」の話を少し。
地上を走る鉄道を高架にして持ち上げる事業を、「連続立体交差事業」といいます。
鉄道によって分断された地域を再び繋ぎ合わせようというのが連続立体高架化事業の大きな目的ですが、例えば都心部では現在、JR中央線立川〜三鷹間の高架化などが進められています。
特に都市部において重要なのは、高架化によって生まれる「高架下」という新しい余剰空間を有効に活用するということ。われわれもいま、ある地域で新しく出来る高架下空間の活用検討を担当しているところですが、この高架下空間、近年では本当にいろいろな活用がなされています。
例えば高架下の利用として一般的にイメージされることが多いのは、駐輪場や駐車場でしょうか。
自分が子供の頃は高架下の公園でよく遊んでいた思い出があります(都心部ではあまり見かけませんが)。
ところが近年では、スーパーやショップ、カフェなどはもちろんのこと、ホテルを入れてみたり、はたまた図書館、保育所を作ってみたりと、高架下空間の活用はかなり多様化しています。
大きな駅では、こんなスポーツセンターまで高架下にあったりします。
さて、この国に鉄道高架自体はいつぐらい昔からあったかというと、その歴史は以外と古く、約100年前の19251910年(※訂正しました)、新橋〜上野間で開通した高架がこの国では初めての高架橋と言われています。
この高架橋が出来ることによって、山手線は初めて現在のような環状運転が可能になりました。
(山手線が環状になるまでの経緯もなかなか面白いのですが、今回は割愛。。)
つまり、高架下は戦前からあった。
これが一つのポイント。
さて、神戸市出身の僕にとって、高架下と言えば三宮高架下、そして、元町高架下です。
元町高架下、通称モトコーと言えば、知る人ぞ知るディープスポットですが、地元の人間はモトコーとは言わず、三宮高架下と合わせて単に「高架下」と呼ぶことが多いです。
そんな「高架下」を、先日仕事で神戸に行ったとき久しぶりに歩いてきました。
この雰囲気、少しは伝わりますでしょうか?
決して「活気がある」という意味ではないですが、昔と変わらず正体不明なエネルギーを発しています。正直僕は、こぎれいなショップや異人館通りよりこっちの方に惹かれてしまいます(ただし、一人で歩くならという条件付きですが)。
東京に出てきたころ、中野ブロードウェイやアメ横を初めて訪れたときも、それなりに衝撃を受けました。
それでも、元町高架下に比べれば客層・目的がはっきりしている印象があって、それほど怪しさは感じなかったことも事実。それだけ、モトコーのカオスっぷりは群を抜いていると思います。
レコード、フィギュア、古いファミコンソフト、どう見ても10年以上前のパソコンなどのアングラ定番商品に加えて、老舗洋菓子、行列のできるカフェ、オーダーメイドのおしゃれなテイラーショップから、格闘技道場?まで。何の脈絡も規則もなく並んでいます。
この雰囲気を一から新しくつくることなど到底無理でしょうね。
ちなみに。
三宮〜元町〜神戸間の高架化がなされたのは、戦前の1934年。
戦後、神戸大空襲の災禍を逃れた高架下にはすぐに闇市が集まり、戦後復興の礎となりました。
神戸「高架下」の原型はこのときの闇市によって作られたのは間違いありません。
それから50年後の1995年、阪神淡路大震災。
このときも被害が最小限に食い止められた「高架下」には市街が立ち直るより早く人々が集まり、復興のシンボルとしていち早く賑わいを見せます。
しかしその後周辺が整備されるにつれ、次第に、いつもの高架下の姿に戻っていきました。
日常と非日常が混ざり合い、それらを自由に行き来する空間。
そんな目で見れば、都市空間の中における高架下という空間の特異性が見えてくる気がします。
治安のことなど問題もたくさんあるのですが、高架下空間には「都市空間の醍醐味」が凝縮されているように思えます。(Y)
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